Gregoryのバックパック選びは面白いもので、自分が何を買ったのか思い出せないことがある。たぶん、イージーデイやキャンパスデイのようなものを手に入れたのだろうけれど、どれもホームページに掲載されている商品とは一致しないのだ。
1年経つと、前のモデルはすっかり姿を消してしまっている。そんな状況だから、バックパックの容量もわからなくなってしまう。もしかしたら、過去にもこんなことを考えていたのかもしれない。
そんなとき、ふと考えることがある。伝統とはいったい何なのだろうか、と。
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ネット記事「ベストサウナ」で、ヨッピーとヒロシが対談しているのを見て、いい論争が繰り広げられているなと感じた。
個人的には、ヒロシ側に共感する部分がある。情報に貪欲になりすぎて人間味を失っているように見える人がいると、平面的な世界に生きているのではないかと思うことがある。立体的な考えが偉いわけではないが、自分がどちらを好むかを理解して進んでいるような様子が見えないため、自分を騙しているのではないかと感じてしまう。そんな時、石野卓球が「メディアに踊らされている」と笑いながら言っていたANNの放送が頭に浮かぶ。
一方、ヨッピー側の人から見れば、自分たちのような敵対する者に対して「年を取って偏屈で気味が悪いから、人間的に腐ってる。素直になれ」と思うのかもしれない。
距離を置いて考えると、平面的な世界にも広がりがあることに気づく。立体的な考えとは別の魅力があるのだと、今更ながらに思う。
そんなことを考えていると、ふと「好きな形は1つしかない」という思いが頭をよぎる。そんな決まり切ったものしか認めないような考え方は、大切な部分を見過ごしているようで、取り返しのつかない事態に陥る前に自壊しそうな印象を受ける。
例えば、自分にとって90年代のレイブミュージックや10年代のダブステップはそんな感じだ。コミュニティの中で共通の楽しさや精神的な開放を共有できる幸せを音楽で追い求めていた。しかし、ユーロビートの場合、実際には「場末の店で大音量で鳴る、ゲスな欲望が渦巻く時にかかる音楽」という位置づけになっていることを知って、心が張り裂けそうになる。自分の頭の中で描いているものと違うと、そのギャップに耐えられない部類の人間だと自覚する。
そんな考えから距離を置くために、次第に孤立してしまっているのかもしれない。
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最近、「女装じいさんと男装ばあさん」という漫画を読み始めた。とても面白い。
おそらく、この漫画が気に入っている理由は、「本人たちを周りの人間が、理解の有無に関わらず特定の価値観で追いつめない」という部分だと思う。
自分の周りには、好き勝手に他人に対して無自覚で暴力的に要求してくるような、他人を支配できるとでも思っている人がいることに対して嫌悪感を抱いているんだ。そんな人たちには、正直言って「うるさい」と思うことがある。
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何度目か分からないけど、数学や物理、そして化学をちゃんと勉強しないとと思って、のんびり過ごしているこの頃。近所のブックオフで教材を買おうかと考えたけど、徒歩圏内にはまったくブックオフがないんだ。都内とは思えない状況だよね。
確かに、まともな本屋が全くない地域に住んでいるので、文化的な要素が欠けているのは仕方ないかもしれない。でも、それでもやっぱり大変だよね。
東京に住んでいるけれど、本を買いに行くために電車に乗って都心まで出向かないといけないなんて、少し面倒だよね。
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最後はプープーテレビのフジワラFMみたいな完成度になった。どういうことだ。
あとは、レイブミュージックの下りでやたらと警告が出てきた。何が駄目なのか指摘されないのでフィードバックにて、これが表現的に間違って解釈しているぞとクレームも出せない。