chatGPTは命令書さえ準備していれば、元々の文をベースにそこそこきれいに書き直してくれる。
校正をするにはとても良い機能だ。
だけど文章生成、という言葉にしっくりくる事がない。人間ではないから生成する、というのも分かるのだけど。
直感で、なんとなくGPT4関連についてエンジニアリングではないのを見ていると山師が群がっている時の賑わいみたいなものが見えるときがある。
この先、AIを利用するにあたって、昔だと複数の新聞を読んで物事をどういう風に取り出して、どのような表現をしているかみたいな所に注視するか、みたいに複数のAIベンダーを組み合わせて互いに指摘内容のアレコレを揉んだものが出てくるんだろうなと思ったりする。
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失敗を許さぬ者というのは、浅薄な人間なのだと指摘されるようになり、私にも理解できるようになってきた。その人たちの考え方を見ると、まるで「自分以外の存在が、この世には無い。あったとしても価値は低い」とでも言いたげである。
感情は人間にはあるけれど、それを表現してはならぬという状況に生きているため、もはや私に人間としての存在意義はあるのだろうかと思うことがある。そして半分あきらめの気持ちで、ただなんとなく過ごしている。
無意味に感情を爆発させることはないが、喜怒哀楽を表すことがむしろ幼稚となる場面が多く、状況に合わせて機械的に作り出すことがほとんどである。本能が腐っていると言われても、苦笑するしかない。
人生においては、正しく感情表現することが重要だと思うが、感情的になっても何も得たり損をしたりすることはないと思えば、そこに関係はない。それでも、何かが感情を封じ込めるようになってしまっている。
このあたりでつまずくと、人生とはとても面倒である。私は経験が浅いのかもしれない。人生半分が過ぎた今でも、そんなことを思ってしまう。
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カロリーゼロの食品が増えた今日、それらを食べることが危険だという経験をした。栄養素としてはカロリーゼロなので、栄養過多になる病気はある程度無視しても良いだろう。そして、「未知の薬品が潜在的に体を蝕んでいる」というのも、学問を持たない素人が自分の正しさを押し付けるだけの傲慢さだとして無視しても問題はないだろう。しかし、より危険なのは、心理的安全性が逆効果に働くことだ。
「いくら食べても大丈夫」という思考は心強いが、結局必要以上に食べてしまい、病気が進行するときのストッパーが効かなくなる。根本的な問題の治療や認識を怠ってしまい、食べ過ぎを解決しようとするインセンティブが働かなくなる。なぜそんなに食べてしまうのか疑問に思い、カロリーゼロのものをただ食べることに陥り、複合的な病気の原因を作ってしまう。好きなものを気にせず食べられる人生の方が遥かに良いが、どうにもカロリーゼロのものを食べることにメリットを感じてしまうと、墓穴を掘っていることに気が付かないことが多い。
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AIのイタコ芸が精度がたけえな!! 最高!!