無為で非効率な一日。
最近の強いストレス源は終わりそうにない。
もう、その思考回路は勉強になったし、そういう仕事の関わりをしないよう努力をします、というのがずっと続いている。
自宅でサンドイッチを作って食べる周期がやってきた。
これは20代以降から突然始まった、理由もない嗜好の変化だ。
凝ったものを作るというのはなく、ただただ、野菜だけは自分で切って食べる。
オリーブやらピーマンの輪切りなど、使いまわしが難しいものはなるべく使わずに質素なものを作ることが多い。
日頃はどんぶりや同じ味のものを食べることが多いので、ちょっとでも複数の味があるものがあるのに飢えているのかもしれない。
喪中なので、初めて知ったことなど。
歳を取ると、一人暮らしなのに物がたくさんになってしまうのはどうしてか、という叔父からの知見。
体力がどうしてもなくなり、片付けよりも生活が大変になるのだから、だと言う。
叔父が故人の生前の世話をしていて、なんとなく気がついたのだ、と。
お付き合いで関係が悪くなるなら、ということで引き取ったり、そもそもの日頃の掃除も真っ当にできなくなる。
今まで出来ていた布団の持ち上げ、台所の流しの下のような、狭い場所の掃除や整頓などができなくなる。
そうなると狭いアパートでも導線がだいたい決まって、歩かなくところに荷物が増えていくのだという。
また、目が悪くなったり、臭いや暑さに対して鈍くなって、よっぽどの清掃を癖として身につけていないと出来なくなるため、そういう、言葉以外の今までになかった狂いが「老い」のサインとして嫌でも気付かされる。
家族にとってはそれが本人の言葉以外で思い知られる辛いことなのだと、もうすぐ、一人では生きていけなくなるのか、と。
故人のエピソードで何十年生き沿った子供に対して「お前は愛想がない」という言葉は、なんとも家族だけに締め付けられるものだった。
それは故人の辛辣なものではなくて愛ゆえの気づかせの言葉であったり、故人も1点に執着しすぎる家系ならではの考えの癖だったり、そして今とは違う、厳格な親であれという価値観が求められた、素直になれない時代の条件の無情さなどがこの言葉にある。
叔父も家系の血を継いでサービス業で生きている。別に人相が悪くもなく、天真爛漫で朗らかな人だったのにも関わらず、そういう言葉が立ちふさがる。
冥福であって欲しい。