ポエムみたいな文章は、やっぱりよくないなと感じる。
仕事で日々、文章を浴びるように読み書きしていると、自然と文のリズムに対してだけは異様にシビアになってくる。だから、内容が曖昧なまま心の動きだけを綴ったような「お気持ち表明」は、本能的に受け付けなくなってきた。対面での説明が必要な内容にそういった文体が持ち込まれると、「なんで今これを聞かされなきゃならんのだ」という気持ちが先に立つ。そして何より、自分の書いたポエムを誰かに解説するという行為には、強烈な羞恥心が伴う。結局、相手を便利使いしているだけなんじゃないか? そんな攻撃的な自意識が、心の周りで踊り狂っては痛いところを突いてくる。
ここで書いているのは、あくまで自分の心の動きをできる限りそのまま書き出して、あとから自分で読んで笑うためのものだ。自分で書いておきながら「知らないおっさんの奇行ログだなこれ」と思えるような、そんな“昔楽しかった時間”を再現するための手段。つまり、これは誰かに「面白いから読んで」と勧めるような種類のものじゃない。便利グッズではなく、あくまで趣味の領域。だからこそ、そういう場所にしまっておくのがちょうどいい。ここを話題に会話を始めるのは良いかもしれないが、自分からここに書いているものを話すようなことでもない。
最近は、AIに文章を校正してもらうこともあるのだけど、書き方さえ自分好みに整えてくれれば、驚くほど読みやすくなる。自分がどれほど読みづらい文章を書いてきたのか、嫌でも実感させられる。もともと、自分の言語生成能力にどこか苛立ちを感じながら生きてきた人間としては、こうやってAIにある程度頼ったほうが、自分も周囲も平和に過ごせるのではとさえ思っている。まさに、星新一の『肩の上の秘書』の世界そのものだ。
とはいえ、こうして言葉に誠実に向き合える時間があるからこそ、見えてくることもある。「思っていること」「考えていること」「やりたいこと」「そして実際に発された言葉」——そのすべてが食い違っている人、というのが世の中には確かに存在する。そういう相手と関わるときには、まずその“通訳”から始めなければならないのだと、ようやく分かってきた気がする。
日々、人の行動から意図や背景を推し量りながらコミュニケーションしていると、自然と「自分がこう動いたら、相手にはどう解釈されるか」を想定するようになる。ただし、その想定に基づいた行動が、必ずしも正解とは限らない。提供される情報は多くの場合、断片的で、しかも相手の視点から発せられたものに過ぎない。
「月が綺麗ですね」が「あなたが好きです」を意味するように、言葉の飛躍や含意は日常にも潜んでいる。そんな曖昧さを抱えたまま、相手の考えを探る作業は、ある種の探索であり、模索である。アマゾンの奥地に行かなくとも、スリルは身近にあるものだと、ふと気づかされる。
だからこそ、“伝わらない話”を無自覚に語り続け、なおかつ他人に教訓めいたことを語っている人の姿を想像すると、なんとも言えずむず痒くなる。「なんでこんなことも分からないんだ」「何を言っているのか分からない」——互いに不満を抱えたまま、見解をすり合わせることもなく時間だけが過ぎていく。もし相手が本当に何かを伝えたいという意志を持っていれば、その糸口は太く、確かなものになるはずだ。だが、相手が「分かってくれるはず」という前提に立っていると、他人同士の会話は途端に居心地の悪いものになる。
時には、自分の正しさを信じて言葉を武器にし、結果として攻撃性の高い人物として映ってしまうこともある。そうなれば、もはや通常のコミュニケーションは成立しない。相手が“こちらを理解する気がない”という前提のもとで、どう動くかを考えなければならない場面も出てくる。
そう思うと、日本語を話す同士ですらこれだけのすれ違いがあるのだから、第一言語が異なる者同士での会話となれば、最初から接点がない前提でいた方が、かえって気が楽だと思えてくる。
四十代の正気というのは、二十代の酩酊とたいして変わらないのではないか。そんな感覚が、最近やたらと答え合わせのように押し寄せてくる。
酒にせよ、時間にせよ、それらは人を晒す力がある。どちらも、もともと抱えていたダメな部分を容赦なく引きずり出す。だからこそ、中年の言うことなんて、まともに受け取ってはいけない——そう思う場面が増えてきた。
最近、身体の変化を最も強く感じるのは、食事の時間だ。
以前は、満腹になれば「腹がいっぱいになった」と感じるだけで、美味しい料理であればそれなりに満足感も得られていた。ところが、ここ最近は様子が違う。食事の途中から、じわじわと精神的な不快感が湧いてきて、食べるという行為そのものがしんどくなってくる。落ち着いて、しばらく安静にしていたいと感じることが増えた。
自分の場合、空腹の感覚がどうにもおかしい。お腹が空いているはずなのに、そうは感じられず、代わりに頭痛やふらつきといった、まるで別の形で身体からサインが出てくる。
こうなると、食事は「楽しみの時間」ではなくなってくる。ひたすら快適さを求めるというより、不快の要素をどこまで減らせるか、そんな発想になるのだ。必ず成功するわけではない中で、せめて失敗の要因を排除しようとする。それは、コントロールできる範囲で何とかしたいという防衛的な姿勢に近い。
排他的に見える考え方も、突き詰めればリスクコントロールのひとつ。そう考えられるようになっただけ、少しは自分の変化を受け止められるようになった気がする。
岩井志麻子が語っていた「物語を買う」という話が、とても興味深かった。言われてみれば、彼女の言う“物語”は、確かにどこにも売っていない。
思いも寄らない出来事が起きて、心が大きく揺さぶられる。さらに、それを誰かと分かち合えるとしたら、その時間はきっと楽しく、希望に満ちたものになるだろう。そんな出来事こそが、生きる力に変わるのだと、腑に落ちた。たとえお金で不安をいくつか取り除けたとしても、その空いた場所には、自分の居場所がないと気づかされる。自分自身の心の中なのに、だ。
けれど、そんなときに“物語”があれば、自分が何かしらの文脈に組み込まれている、と感じられる瞬間がある。社会と繋がっていると知ったとき、その空虚さはふいに透き通り、かけがえのない何かへと姿を変えるのかもしれない。
現実が創作を超えてしまうような出来事が、次々と起きている。だからこそ、今の現実は妙に面白くも感じられる。こんなことが起きている最中では、自分の頭の中で描いているような物語があまりに幼く見えてしまい、とても小説なんて書けない。
創作と違って、現実には“設定”も“伏線”もない。ただ、理解しがたく、常識や倫理の言葉でくくるには重すぎる現象が目の前に並んでいる。ゾンビが街を襲うような話はフィクションの中だけの話だと分かっているが、覚醒剤の影響で、感情も表情も失った人々が現実に現れているという報道を見ると、物語以上の異常が現実に起きていると実感する。
そこから創作のヒントを得ようとしても、出てくるのは、どうしようもない話ばかりだ。欲望や破綻、あるいは逃避の連なりのような——そんなものばかりが湧いてきて、手に負えなくなる。